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「百済より渡すところの釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云々。弓削、なのって云わく「これは我が放つ矢にはあらず。我が先祖崇重の府都大明神の放ち給う矢なり」と。この矢はるかに飛んで太子の鎧に中る。太子なのる。「これは我が放つ矢にはあらず。四天王の放ち給う矢なり」とて、迹見赤檮と申す舎人にいさせ給えば、矢はるかに飛んで守屋が胸に中りぬ。はたのかわかつ、おちあいて頸をとる。この合戦は用明崩御、崇峻いまだ位に即き給わざる、その中間なり。
第三十三崇峻天皇、位につき給う。太子は四天王寺を建立す。これ釈迦如来の御舎利なり。馬子は元興寺と申す寺を建立して百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す。今の代に世間第一の不思議は、善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり。また釈迦仏にあだをなせしゆえに、三代の天皇ならびに物部の一族むなしくなりしなり。また太子、教主釈尊の像一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ。今の橘寺の御本尊これなり。これこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。
漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見て、博士の蔡愔・王遵等の十八人を月氏につかわして仏法を尋ねさせ給いしかば、中天竺の聖人の摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯歳迎え取って崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのりせし儒家・道家の人々数千人、このことをそねみてうったえしかば、同永平十四年正月十五日に召し合わせられしかば、漢土の道士悦びをなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙み給う。道士は本より、王の前にして、習いたりし仙経・三墳五典・二聖三王の書を薪につみこめてやきしかば、古はやけざりしがはいとなりぬ。先には水にうかびしが水に沈みぬ。鬼神
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(209)四条金吾殿御返事(世雄御書) | 建治3年(’77)7月または8月 | 56歳 | 四条金吾 |