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無仏」と唱え給えば、御舎利掌にあり。これ日本国の釈迦念仏の始めなり。
太子八歳なりしに、八歳の太子云わく「西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像、末世にこれを尊べば、則ち禍いを消し福を蒙る。これを蔑れば、則ち災いを招き寿を縮む」等云々。大連物部の弓削宿禰の守屋等いかりて云わく「蘇我は勅宣を背いて他国の神を礼す」等云々。また疫病いまだ息まず、人民すでにたえぬべし。弓削守屋、またこれを間奏す云々。勅宣に云わく「蘇我馬子、仏法を興行す。よろしく仏法を却くべし」等云々。ここに守屋と中臣臣・勝海大連等の両臣とは、寺に向かって、堂塔を切りたおし、仏像をやきやぶり、寺には火をはなち、僧尼の袈裟をはぎ、笞をもってせむ。また天皇ならびに守屋・馬子等疫病す。その言に云わく「焼くがごとし、きるがごとし」。また瘡おこる。ほうそうという。馬子歎いて云わく「なお三宝を仰がん」。勅宣に云わく「汝独り行え。ただし、余人を断てよ」等云々。馬子欣悦し、精舎を造って三宝を崇めぬ。天皇は終に八月十五日、崩御云々。この年は太子は十四なり。
第三十二代用明天皇、治二年、欽明の太子、聖徳太子の父なり。治二年丁未四月に天皇疫病あり。皇勅して云わく「三宝に帰せんと欲す」云々。蘇我大臣、詔に随うべしとて、ついに法師を引いて内裏に入る。豊国の法師これなり。物部守屋大連等、大いに瞋り、横に睨んで云わく「天皇を厭魅す」と。終に皇隠れさせ給う。五月に物部守屋が一族、渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ。太子と馬子と押し寄せてたたかう。五月六月七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給う。第四度めに太子、願を立てて云わく「釈迦如来の御舎利の塔を立て、四天王寺を建立せん」と。馬子、願じて云わく
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(209)四条金吾殿御返事(世雄御書) | 建治3年(’77)7月または8月 | 56歳 | 四条金吾 |