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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

るべしやいなや」。蘇我大臣いなめの宿禰と申せし人云わく「西蕃の諸国みなこれを礼す。とよあきやまと、あに独り背かんや」と申す。物部大むらじおこし・中臣かまこ等、奏して曰わく「我が国家、天下に君たる人は、つねに天地・しゃそく・百八十神を春夏秋冬にさいはいするを事とす。しかるを、今さらあらためて西蕃の神を拝せば、おそらくは我が国の神いかりをなさん」と云々。その時に天皇わかちがたくして勅宣す。「このことを、ただ心みに蘇我大臣につけて、一人にあがめさすべし。他の人用いることなかれ」。蘇我大臣うけ取って大いに悦び給いて、この釈迦仏を我が居住のおわだと申すところに入れまいらせて安置せり。
 物部大連、「不思議なり」とていきどおりしほどに、日本国に大疫病おこりて死せる者大半に及ぶ。すでに国民尽きぬべかりしかば、物部大連、隙を得て、この仏を失うべきよし申せしかば、勅宣なる。「早く他国の仏法を棄つべし」云々。物部大連、御使いとして仏をば取って炭をもっておこし、つちをもって打ちくだき、仏殿をば火をかけてやきはらい、僧尼をばむちをくわう。その時、天に雲なくして大風ふき、雨ふり、内裏天火にやけあがって、大王ならびに物部大連、蘇我臣、三人共に疫病あり。きるがごとく、やくがごとし。大連は終に寿絶えぬ。蘇我と王とはからくして蘇生す。しかれども、仏法を用いることなくして十九年すぎぬ。
 第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子、治十四年なり。左右の両臣は、一りは物部大連が子にて弓削守屋、父のあとをついで大連に任ず。蘇我宿禰の子は蘇我馬子と云々。この王の御代に聖徳太子生まれ給えり。用明の御子、敏達のおいなり。御年二歳の二月、東に向かって無名の指を開いて「南