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を呼びしも来らず。あまりのはずかしさに、褚善信・費叔才なんど申せし道士等はおもい死ににししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登って光を放って日輪みゆることなし。画像の釈迦仏は眉間より光を放ち給う。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ちぬ。
されば、釈迦仏は賞罰ただしき仏なり。上に挙ぐる三代の帝ならびに二人の臣下、釈迦如来の敵とならせ給いて、今生は空しく後生は悪道に堕ちぬ。
今の代もまたこれにかわるべからず。漢土の道士、信・費等、日本の守屋等は、漢土・日本の大小の神祇を信用して教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随い奉り、行者は皆ほろびぬ。今の代もかくのごとし。上に挙ぐるところの百済国の仏は教主釈尊なり。名を阿弥陀仏と云って、日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかえたり。神と仏と、仏と仏との差別こそあれども、釈尊をすつる心はただ一なり。されば、今の代の滅せんこと、また疑いなかるべし。これはいまだ申さざる法門なり。秘すべし、秘すべし。
また吾が一門の人々の中にも、信心もうすく、日蓮が申すことを背き給わば、蘇我がごとくなるべし。その故は、仏法日本に立ちしことは、蘇我宿禰と馬子との父子二人の故ぞかし。釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈のごとくにてこそあらましなれども、物部と守屋とを失いし故にただ一門になりて、位もあがり国をも知行し一門も繁昌せし故に、高挙がりをなして崇峻天皇を失いたてまつり、王子を多く殺し、結句は太子の御子二十三人を馬子がまご入鹿の臣下失いまいらせし故に、皇極天皇は中臣鎌子が計らいとして、教主釈尊を造り奉ってあながちに申せしかば、入鹿の臣ならびに父等の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(209)四条金吾殿御返事(世雄御書) | 建治3年(’77)7月または8月 | 56歳 | 四条金吾 |