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て『因』となす」の人なり。それがために法華経の極理を弘めたるは、「機を承けて応ず。故に名づけて『縁』となす」にあらずや。「因」は下種なり。「縁」とは、三・五の宿縁に帰するなり。
事の一念三千は、日蓮が身に当たっての大事なり。「一」とは一念、「大」とは三千なり。この三千ときたるは、事の因縁なり。「事」とは衆生世間、「因」とは五陰世間、「縁」とは国土世間なり。国土世間の縁とは、南閻浮提は妙法蓮華経を弘むべき本縁の国なり。経に云わく「閻浮提内、広令流布、使不断絶(閻浮提の内に、広く流布せしめて、断絶せざらしめん)」、これなり云々。
第四 「五濁」の事
文句の四に云わく「『劫濁』は別の体無し。劫はこれ長時、刹那はこれ短時なり。『衆生濁』は別の体無く、見・慢の果報を攬る。『煩悩濁』は五鈍使を指して体となす。『見濁』は五利使を指して体となす。『命濁』は色心を連持するを指して体となす」。
御義口伝に云わく、日蓮等の類いはこの「五濁」を離るるなり。「我此土安穏(我がこの土は安穏)」なれば、「劫濁」にあらず。実相無作の仏身なれば、「衆生濁」にあらず。煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば、「煩悩濁」にあらず。五百塵点劫より無始本有の身なれば、「命濁」にあらざるなり。「正直捨方便 但説無上道(正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ)」の行者なれば、「見濁」にあらざるなり。
詮ずるところ、南無妙法蓮華経を境として起こるところの五濁なれば、日本国の一切衆生、五濁の正意なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(095)御義口伝 |