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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

となす。諸仏出世の儀式なり。故に名づけて『事』となす。衆生にこの機有って仏を感ず。故に名づけて『因』となす。仏、機を承けて応ず。故に名づけて『縁』となす。これを出世の本意となす」。
  御義口伝に云わく、「一」とは、法華経なり。「大」とは、華厳なり。「事」とは、中間の三味なり。法華已前にも三諦あれども、砕けたる珠は宝にあらざるがごとし云々。
  また云わく、「一」とは、妙なり。「大」とは、法なり。「事」とは、蓮なり。「因」とは、華なり。「縁」とは、経なり云々。
  また云わく、我らが頭は妙なり。喉は法なり。胸は蓮なり。胎は華なり。足は経なり。この五尺の身、妙法蓮華経の五字なり。この大事を、釈迦如来、四十余年の間、隠密したもうなり。今経の時、説き出だしたもう。この大事を説かんがために、仏は世に出でたもう。我らが一身は妙法五字なりと「開仏知見(仏知見を開く)」する時、即身成仏するなり。「開」とは、信心の異名なり。信心をもって妙法を唱え奉らば、やがて開仏知見するなり。しかるあいだ、信心を開く時、南無妙法蓮華経と示すを、「示仏知見(仏知見を示す)」と云うなり。示す時に霊山浄土の住所と悟り、即身成仏と悟るを、「悟仏知見(仏知見を悟る)」と云うなり。悟る当体、直至道場なるを、「入仏知見(仏知見に入る)」と云うなり。しかるあいだ、信心の開仏知見をもって正意とせり。入仏知見の「入」の字は、迹門の意は、実相の理の内に帰入するを、入と云うなり。本門の意は、理即本覚と入るなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る程の者は、宝塔に入るなり云々。
  また云わく、「開仏知見」の「仏」とは、九界所具の仏界なり。「知見」とは、妙法の二字、止観