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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

日蓮等の類い、この重罪を脱れたり。謗法の人々、法華経を信じ釈尊に帰し奉れば、何ぞ已前の殺父・殺母の重罪滅せざらんや。
  ただし、父母なりとも、法華経不信の者ならば、殺害すべきか。その故は、権教に愛を成す母、権教方便・真実を明らめざる父をば、殺害すべしと見えたり。よって、文句の二に云わく「観解とは、貪愛の母・無明の父これを害するが故に逆と称す。逆は、即ち順なり。非道を行じて、仏道に通達す」。「観解」とは、末法当今は題目の観解なるべし。子として父母を殺害するは「逆」なり。しかりといえども、法華経不信の父母を殺しては「順」となるなり。ここをもって「逆は、即ちこれ順なり」と釈せり。
  今、日蓮等の類いは、「阿闍世王」なり。その故は、南無妙法蓮華経の剣を取って、貪愛・無明の父母を害して、教主釈尊のごとく仏身を感得するなり。「貪愛の母」とは、勧持品の三類の中、第一の俗衆なり。「無明の父」とは、第二・第三の僧なり云々。
第四 「仏所護念(仏の護念したもうところ)」の事
  文句の三に云わく「『仏所護念』とは、無量義処は、これ仏の証得したもうところなり。この故に如来の護念したもうところなり。下の文に『仏自住大乗(仏は自ら大乗に住したまえり)』と云えり。開示せんと欲すといえども、衆生の根は鈍なれば、久しくこの要を黙して、務めて速やかには説きたまわず。故に『護念』と云う」。
  記の三に云わく「昔はいまだ説かず。故にこれを名づけて『護』となす。法に約し、機に約し、