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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

迹にあらざることなし。いわゆる伊勢大神宮・八幡・賀茂・日吉・春日等は、皆これ釈迦・薬師・弥陀・観音等の示現なり。各宿習の地を卜め、専ら有縁の儀を調う乃至その内証に随って彼の法施を資け、念誦・読経、神によって事異なり、世を挙げて信を取り、人ごとに益を被る。しかるに、今、専修の徒、事を念仏に寄せて、永く神明を敬うことなし。既に国の礼を失い、なお神を無するの咎あり。当に知るべし、有勢の神祇定めて降伏の眸を回らして睨みたまわん〈これを略す〉。
 一、一向専修は、和漢の例、快からざること。
 右、慈覚大師の入唐巡礼記を按ずるに云わく「唐の武宗皇帝、会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺において弥陀念仏の教えを伝えしむ。寺ごとに三日巡輪すること絶えず。同二年、回鶻国の軍兵等、唐の界を侵す。同三年、河北の節度使たちまち乱を起こす。その後、大蕃国また命を拒み、回鶻国重ねて地を奪う。およそ兵乱は秦項の代に同じく、災火は邑里の際に起こる。いかにいわんや、武宗大いに仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を撥むること能わずして、ついにもって事有り」已上取意。これ則ち、ほしいままに浄土の一門を信じて、護国の諸教を仰がざるによってなり。しかるに、吾が朝、一向専修を弘通してより以来、国は衰微に属し、俗は艱難多し已上〈これを略す〉。
 また云わく、音の哀楽をもって国の盛衰を知る。詩の序に云わく「治世の音は安んじてもって楽しむ。その政和らげばなり。乱世の音は怨んでもって怒る。その政乖けばなり。亡国の音は哀れんでもって思う。その民困しめばなり」云々。近代、念仏の曲を聞くに、理世撫民の音に背き、すでに哀慟の響きを成す。これ亡国の音なるべし〈これ四。已上、奏状〉。