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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

抛ちたもう云々。また涅槃経に云わく「如来には虚妄の言無しといえども、もし衆生、虚妄の説に因ると知ろしめさば」云々。正しく弥陀念仏をもって「虚妄」と称する文なり。法華経に云わく「ただ楽って大乗経典を受持するのみにして、乃至、余経の一偈をも受けざれ」云々。
 妙楽大師云わく「いわんや、彼の華厳のただ福のみをもって比するをや。この経の、法をもってこれを化するに同じからず。故に『乃至、余経の一偈をも受けざれ』と云う」云々。
 彼の華厳経は寂滅道場の説、法界唯心の法門なり。上本は十三世界微塵品、中本は四十九万八千偈、下本は十万偈四十八品なり。今、現に一切経蔵を観るに、ただ八十・六十・四十等の経なり。その外の方等・般若、大日経・金剛頂経等の諸の顕密の大乗経等を、なお法華経に対当し奉って、仏自ら、あるいは「いまだ真実を顕さず」と云い、あるいは「留難多きが故なり」、あるいは「門を閉じよ」、あるいは「抛て」等云々。いかにいわんや阿弥陀経をや。ただ大山と蟻岳との高下、師子王と狐兎との捔力なり。
 今、日秀等、彼らの小経を抛ち、専ら法華経を読誦し、法界に勧進して南無妙法蓮華経と唱え奉る、あに殊忠にあらずや。これらの子細、御不審を相貽さば、高僧等を召し合わせられ、是非を決せらるべきか。仏法の優劣を糾明せらるることは、月氏・漢土・日本の先例なり。今、明時に当たって、何ぞ三国の旧規に背かんや。
 訴状に云わく「今月二十一日、数多の人勢を催し、弓箭を帯し院主分の御坊内に打ち入り、下野坊は馬に乗り、熱原の百姓・紀次郎男を相具し、点札を立て、作毛を刈り取り、日秀の住房に取り入れ