SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

諸の衆生、大乗の中において、その心怯弱にして、信を生ずること能わず。故に、如来の浄妙法身を開示して、信心を生ぜしむるが故なり」文。
 「諸の菩薩」の「諸」の字は法華已前の大小の諸の菩薩、法華経に来って仏の蓮華を得るということ、法華論の文分明なり。故に知んぬ、「菩薩、処々に入ることを得」とは方便なり。天台、この論の文を釈して云わく「今、論の意を解すれば、『衆生をして浄妙法身を見せしむ』と言うがごときは、これは妙因の開発するをもって蓮華となすなり。『如来の大衆に入って蓮華の上に坐す』と言うがごときは、これは妙報の国土をもって蓮華となすなり」。
 また天台、当体・譬喩合説する様を委細に釈し給う時、大集経の「我、今、仏の蓮華を敬礼す」という文と法華論の今の文とを引証して、釈して云わく「もし大集に依らば、行法の因果を蓮華となす。菩薩の上に処るは即ちこれ因の華なり。仏の蓮華を礼するは即ちこれ果の華なり。もし法華論に依らば、依報の国土をもって蓮華となす。また菩薩、蓮華の行を修するに由って、報として蓮華の国土を得。当に知るべし、依正因果ことごとくこれ蓮華の法なり。何ぞ譬えもて顕すことを須いん。鈍人の法性の蓮華を解せざるがための故に、世の華を挙げて譬えとなす。また応に何の妨げかあるべき」文。また云わく「もし蓮華にあらずんば、何によってかあまねく上来の諸法を喩えん。法譬双べ弁ず。故に、妙法蓮華と称するなり」。
 次に竜樹菩薩、大論に云わく「蓮華とは法譬並べ挙ぐるなり」文。伝教大師、天親・竜樹の二論の文を釈して云わく「論の文は、ただ妙法蓮華経とのみ名づくるに二種の義有りと。ただ蓮華のみに二