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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

華経、南無妙法蓮華経〈爾前の円の菩薩等、今経に「大衆八万有り。具足の道を聞きたてまつらんと欲す」云々、これなり〉。
 問う。当流の法門の意は、諸宗の人来って当体蓮華の証文を問わん時は法華経のいずれの文を出だすべきや。
 答う。二十八品の始めに妙法蓮華経と題す。この文を出だすべきなり。
 問う。何をもって、品々の題目は当体蓮華なりということを知ることを得るや。故は、天台大師、今経の首題を釈する時、「蓮華とは譬喩を挙ぐ」と云って、譬喩蓮華と釈し給えるものをや。
 答う。題目の蓮華は当体・譬喩を合説す。天台の今の釈は、譬喩の辺を釈する時の釈なり。玄文第一の本迹の六譬は、この意なり。同じく第七は当体の辺を釈するなり。故に、天台は題目の蓮華をもって当体・譬喩の両説を釈するが故に失無し。
 問う。何をもって、題目の蓮華は当体・譬喩合説すということを知ることを得るや。南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時、「妙とは、衆生妙なるが故に。法とは、衆生法なるが故に。蓮華とは、これ譬喩を借る」文。南岳・天台の釈既に譬喩蓮華なりと釈し給う、いかん。
 答う。南岳の釈も天台の釈のごとし云々。ただし当体・譬喩合説すということ、経文分明ならずといえども、南岳・天台既に天親・竜樹の論に依って合説の意と判釈するなり。
 いわゆる、法華論に云わく「妙法蓮華とは、二種の義有り。一には出水の義乃至泥水を出ずるをば、諸の声聞の、如来の大衆の中に入って坐すること、諸の菩薩の蓮華の上に坐するがごとくにして、如来の無上の智慧・清浄の境界を説くを聞いて如来の密蔵を証するに喩うるが故に。二に華開とは、