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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

種の義有りと謂うにはあらず。およそ法と喩とは相似たるを好しとなす。もし相似たらずんば、何をもってか他を解せしめん。この故に、釈論に『法喩並べ挙ぐ』と。一心の妙法蓮華は、因華・果台、俱時に増長す。この義解し難し、喩えを仮れば解し易し。この理を詮ずる教えを、名づけて妙法蓮華経となす」文。
 これらの論の文、釈の義分明なり。文に在って見るべし。包蔵せざるが故に、合説の義極成せり。
 およそ法華経の意は、譬喩即法体、法体即譬喩なり。故に、伝教大師、釈して云わく「今経は譬喩多しといえども、大喩はこれ七喩なり。この七喩は即ち法体、法体は即ち譬喩なり。故に、譬喩の外に法体無く、法体の外に譬喩無し。ただし、法体とは法性の理体なり。譬喩とは即ち妙法の事相の体なり。事相即理体なり。理体即事相なり。故に、法譬一体とは云うなり。ここをもって、論の文・山家の釈は、皆、蓮華を釈するには、『法譬並べ挙ぐ』と」等云々。釈の意分明なり。故に重ねて云わず。
 問う。如来の在世に、誰か当体の蓮華を証得せるや。
 答う。四味三教の時は、三乗・五乗・七方便・九法界・帯権の円の菩薩ならびに教主、乃至法華迹門の教主、総じて、本門寿量の教主を除くの外は、本門の当体蓮華の名をも聞かず。いかにいわんや、証得せんをや。
 開三顕一の無上菩提の蓮華、なお四十余年にはこれを顕さず。故に、無量義経に「終に無上菩提を成ずることを得ず」とて、迹門開三顕一の蓮華は爾前にこれを説かずと云うなり。いかにいわんや、開近顕遠・本地難思・境智冥合・本有無作の当体蓮華をば、迹化の弥勒等これを知るべきや。