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問うて曰わく、汝、僧形をもって比丘の失を顕すは罪業にあらずや。
答えて曰わく、涅槃経に云わく「もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」已上。予、この文を見るが故に「仏法の中の怨なり」との責めを免れんがために、見聞を憚らずして法然上人ならびに所化の衆等の阿鼻大城に堕つべき由を称う。
この道理を聞き解く道俗の中に、少々廻心の者有り。もし一度高覧を経ん人、上に挙ぐるところのごとくこれを行ぜずんば、大集経の文の「もし国王有って、我が法の滅せんを見て、捨てて擁護せずんば、無量世において施・戒・慧を修すとも、ことごとく滅失して、その国の内に三種の不祥を出ださん乃至命終して、大地獄に生ぜん」との記の文を免れ難きか。仁王経に云わく「もし王の福尽きん時○七難必ず起こらん」。この文に云わく「無量世において施・戒・慧を修すとも、ことごとく滅失す」等云々。この文を見るに、しばらく万事を閣いて、まずこの災難の起こる由を勘うべきか。もししからざれば、いよいよまた重ねて災難これ起こらんか。
愚勘かくのごとし。取捨は人の意に任す。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(025)災難対治抄 | 正元2年(’60)2月 | 39歳 |