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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

ごとし。仏教に値わずして三界を出ずるといわば、この処有ることなし。
 小乗の二乗もまたまたかくのごとし。鹿苑施小の時、外道の我を離れて、無我の見に住す。この情を改めずして四十余年、草庵に止宿するの思い、しばらくも離るる時無し。また大乗の菩薩において、心生の十界を談ずといえども、しかも心具の十界を論ぜず。またある時は、九界の色心を断じ尽くして、仏界の一理に進む。この故に自ら念わく「三惑を断じ尽くして変易の生を離れ、応に寂光に生ずべし」。しかるに、九界を滅すれば、これ則ち断見なり。進んで仏界に昇れば、即ち常見となす。九界の色心の常住を滅せんと欲うは、あに九法界に迷惑するにあらずや。
 また妙楽大師云わく「ただ心を観ずと言うのみならば、則ち理に称わず」文。この釈の意は、小乗の観心は小乗の理に称わざるのみ。また天台、文句の第九に云わく「七方便は、ならびに究竟の滅にあらず」已上。この釈は、これ爾前の前の三教の菩薩も実には成仏せずと云えるなり。
 ただし、「いまだ真実を顕さず」と説くといえども三乗の得道を許し、「正直に方便を捨つ」と説くといえどもしかも「諸の菩薩の記を授かって作仏するを見る」と云うは、天台宗において三種の教相有り。第二の化導の始終の時、過去世において法華結縁の輩有り。爾前の中においてしばらく法華のために三乗当分の得道を許す。いわゆる種・熟・脱の中の熟益の位なり。これはなお迹門の説なり。本門・観心の時は、これ実義にあらず、一往許すのみ。その実義を論ずれば、如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば、永く六道の流転を出ずべからず。故に、釈に云わく「円乗の外を名づけて外道となす」文。また「諸の善男子よ。小法を楽える徳薄・垢重の者」と説く。もししからば、経釈共に