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この故に、記の九に云わく「『昔の七方便』より『誠諦』に至るまでは、七方便の権と言うは、しばらく昔の権に寄す。もし果門に対せば、権実ともにこれ随他意なり」已上。この釈は明らかに知んぬ、迹門をもなお随他意と云うなり。
寿量品の「皆実にして虚しからず」を、天台釈して云わく「円頓の衆生に約せば、迹本二門において一実一虚なり」已上。記の九に云わく「故に知んぬ、迹の実は本においてなお虚なることを」已上。迹門既に虚なること、論に及ぶべからず。
ただし、「皆これ真実なり」とは、もし本門に望むれば迹はこれ虚なりといえども、一座の内において虚実を論ずるが故に、本迹両門ともに真実と言うなり。例せば、迹門法説の時の譬説・因縁の二周も、この一座において聞知せざること無きが故に、名づけて顕となすがごとし。記の九に云わく「もし方便の教えならば、二門ともに虚なり。因門開し竟わって果門に望むれば、則ち一実一虚なり。本門顕れ竟われば、則ち二種ともに実なり」已上。この釈の意は、本門いまだ顕れざる以前は、本門に対すればなお迹門をもって名づけて虚となす。もし本門顕れ已わりぬれば、迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に、天月・水月本有の法と成って、本迹ともに三世常住と顕るるなり。一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因と言い、一切衆生の本覚を名づけて本門の円果となす。「一円因を修して、一円果を感ず」とは、これなり。
かくのごとく法門を談ずるの時、迹門・爾前は、もし本門顕れずんば六道を出でず。何ぞ九界を出でんや。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(021)十法界事 | 正元元年(’59) | 38歳 |