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道理必然なり。
答う。執難有りといえども、その義は不可なり。所以は、如来の説教は機に備わって虚しからず。ここをもって、頓等の四教、蔵等の四教は、八機のために設くるところにして、得益無きにあらず。故に、無量義経には「この故に衆生は得道差別す」と説く。誠に知んぬ、「終に無上菩提を成ずることを得ず」と説くといえども、しかも三法四果の益無きにあらず。ただこれ速疾頓成と歴劫迂回との異なるのみ。これ一向に得道無きにあらざるなり。
この故に、あるいは三明六通も有り。あるいは普現色身の菩薩も有り。たとい、一心三観を修して、もって同体の三惑を断ぜずとも、既に析智をもって見思を断ず。何ぞ二十五有を出でざらん。この故に、解釈に云わく「もし衆生に遇って小乗を修せしめば、我は則ち慳貪に堕せん。この事は不可となす。ただ二十五有を出ずるのみ」已上。当に知るべし、「この事は不可となす」と説くといえども、しかも出界有り。ただこれ不思議の空を観ぜざるが故に不思議の空智を顕さずといえども、何ぞ小分の空解を起こさざらん。もし空智をもって見思を断ぜずと云わば、開善の無声聞の義に同ずるにあらずや。
いわんや、今経は正直捨権・純円一実の説なり。諸の爾前の声聞の得益を挙げて、「諸の漏すでに尽き、また煩悩無し」と説き、また「実に阿羅漢を得て、もしこの法を信ぜずんば、この処有ることなけん」と云い、また「三百由旬を過ぎ、一城を化作す」と説く。もし諸の声聞全く凡夫に同ぜば、五百由旬一歩も行くべからず。
また云わく「自ら得るところの功徳において、滅度の想いを生じて、当に涅槃に入るべし。我は余国
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(021)十法界事 | 正元元年(’59) | 38歳 |