えず。ただし、四十余年の諸の経教の中に、無数の凡夫、見思を断じて無漏の果を得、能く二種の涅槃の無為を証し、塵数の菩薩、通・別の惑を断じ、頓に二種の生死の縛を超ゆ。無量義経の中に四十余年の諸経を挙げて「いまだ真実を顕さず」と説くといえども、しかもなお爾前の三乗の益を許す。法華の中において「正直に方便を捨つ」と説くといえども、なお「諸の菩薩の記を授かって作仏するを見る」と説く。かくのごとき等の文、爾前の説において当分の益を許すにあらずや。
ただし、爾前の諸経に二事を説かず。謂わく、実の円仏無く、また久遠実成を説かず。故に、等覚の菩薩に至るまで近成を執する思い有り。この一辺において、天・人と同じく能迷の門を挙げ、生死・煩悩一時に断壊することを証せず。故に、ただ「いまだ真実を顕さず」とのみ説けり。六界の互具を明かさざるが故に出ずべからずとは、この難はなはだ不可なり。六界互具せば、即ち十界互具すべし。何となれば、権果の心生とは、六凡の差別なり。心生を観ずるに、何ぞ四聖の高下無からんや。
第三重の難に云わく、立つるところの義、誠に道理有るに似たれども、委しく一代聖教の前後を撿うるに、法華本門ならびに観心の智慧を起こさざれば、円仏と成らず。故に、実の凡夫にして、権果をも得ず。
所以は、彼の外道、五天竺に出でて四顚倒を立つ。如来世に出でて、四顚倒を破せんがために、苦・空等を説く。これ則ち外道の迷情を破せんがためなり。この故に、外道の我見を破して無我に住するは、火を捨ててもって水に随うがごとし。堅く無我を執して、見思を断じ六道を出ずると謂えるは、これ迷いの根本なり。故に、色心俱滅の見に住す。大集等の経々に「断・常の二見」と説くは、これなり。例せば、有漏外道の自らは得道すと念えども、無漏智に望めば、いまだ三界を出でざるが
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(021)十法界事 | 正元元年(’59) | 38歳 |