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り。天台の所釈に「この妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵、三世の如来の証得したもうところなり」と釈したり。さて、この妙法蓮華経を唱うる時、心中の本覚の仏顕る。我らが身と心をば蔵に譬え、妙の一字を印に譬えたり。天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く。これを称して妙となす。権実の正軌を示す。故に号して法となす。久遠の本果を指す。これを喩うるに蓮をもってす。不二の円道に会す。これを譬うるに華をもってす。声、仏事をなす。これを称して経となす」と釈し給う。また「妙とは不可思議の法を褒美するなり。また妙とは十界・十如・権実の法なり」云々。
「経の題目を唱うると観念と一なること、心得がたし」と愚癡の人は思い給うべし。されども、天台、止の二に「而於説黙」と云えり。説とは経、黙とは観念なり。また、四教義の一に云わく「ただ功の唐捐ならざるのみにあらず、また能く理に契うの要なるかな」云々。天台大師と申すは、薬王菩薩なり。この大師、「説而観而」と釈し給う。元より、天台の所釈に、因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり。四種の重を知らずして一しなを見たる人、一向本迹をむねとし、一向観心を面とす。
法華経に法・譬・因縁ということあり。法説の段に至って、諸仏出世の本懐、一切衆生成仏の直道と定む。我のみならず一切衆生直至道場の因縁なりと定め給いしは、題目なり。されば天台、玄の一に「衆善の小行を会して、広大の一乗に帰す」と。「広大」と申すは、残らず引導し給うを申すなり。たとい釈尊一人本懐と宣べ給うとも等覚以下は仰いでこの経を信ずべし。いわんや、諸仏出世の本懐なり。
禅宗は「観心を本懐と仰ぐ」とあれども、それは四種の一面なり。一念三千・一心三観等の観心ば
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(020)一念三千法門 | 正嘉2年(’58) | 37歳 |