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慧」とも云う。善悪不二・邪正一如と聞くところに、やがて内証成仏す。故に、即身成仏と申す。一生に証得するが故に、一生妙覚と云う。義を知らざる人なれども、唱うれば、ただ仏と仏とのみ悦び給う。「我は即ち歓喜す。諸仏もまたしかなり」云々。百千合わせたる薬も口にのまざれば病愈えず、蔵に宝を持てども開くことをしらずしてかつえ、懐に薬を持っても飲まんことをしらずして死するがごとし。如意宝珠という玉は、五百弟子品のこの経の徳もまたかくのごとし。
観心を並べて読めば申すに及ばず。観念せずといえども、始めに申しつるごとく「所謂諸法如是相如云々」と読む時は、如は空の義なれば、我が身の先業にうくるところの相・性・体・力、その具するところの八十八使の見惑、八十一品の思惑、その空は報身如来なり。「所謂諸法如是相云々」とよめば、これ仮の義なれば、我がこの身、先業によって受けたる相・性・体・力云々。その具したる塵沙の惑ことごとく即身応身如来なり。「所謂諸法如是」と読む時は、これ中道の義に順じて、業によって受くるところの相・性等云々。それに随いたる無明皆退いて、即身法身の如来と心を開く。この十如是、三転によまるること、三身即一身・一身即三身の義なり。三つに分かるれども一つなり。一つに定まれども三つなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(020)一念三千法門 | 正嘉2年(’58) | 37歳 |