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かり法華経の肝心なるべくば、題目に十如是を置くべきところに、題目に妙法蓮華経と置かれたる上は、子細に及ばず。また当世の禅宗は、「教外に別伝す」と云い給うかと思えば、また捨てられたる円覚経等の文を引かるる上は、実経の文において御綺えに及ぶべからず候。智者は読誦に観念をも並ぶべし。愚者は題目ばかりを唱うとも、この理に会うべし。
この妙法蓮華経とは、我らが心性、総じては一切衆生の心性、八葉の白蓮華の名なり。これを教え給う仏の御詞なり。無始より以来、我が身中の心性に迷って生死を流転せし身、今この経に値い奉って三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて現世にその内証成仏するを、即身成仏と申す。死すれば光を放つ。これ外用の成仏と申す。「来世に作仏することを得ん」とは、これなり。
「略して経題を挙ぐるに、玄に一部を収む」とて、一遍は一部なり云々。妙法蓮華経と唱うる時、心性の如来顕る。耳にふれし類いは、無量阿僧祇劫の罪を滅す。一念も随喜する時、即身成仏す。たとい信ぜざれども、種と成り、熟と成り、必ずこれに依って成仏す。妙楽大師云わく「もしは取、もしは捨、耳に経て縁と成り、あるいは順、あるいは違、終にこれに因って脱す」云々。日蓮云わく「もしは取、もしは捨、あるいは順、あるいは違」の文、肝に銘ずる詞なり。法華経に「もし法を聞くことあらば」等と説かれたるは、これか。既に「聞くことあらば」と説かれたり。観念ばかりにて成仏すべくば、「もし法を観ずることあらば」と説かるべし。ただ天台の御料簡に十如是と云うは十界なり。この十界は、一念より事起こり十界の衆生は出で来りけり。この十如是というは、妙法蓮華経にてありけり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(020)一念三千法門 | 正嘉2年(’58) | 37歳 |