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し。それ、仏は子なれども、賢くましまして悟り出だし給えり。凡夫は親なれども、愚癡にしていまだ悟らず。委しき義を知らざる人、「毘盧の頂上をふむ」なんど悪口す。大いなる僻事なり。
一心三観に付いて、次第の三観、不次第の三観ということあり。委しく申すに及ばず候。この三観を心得すまし成就したるところを、華厳経に「三界は、ただ一心なり」云々。天台は「諸水、海に入る」とのぶ。仏と我らと総じて一切衆生、理性一にてへだてなきを、平等大慧と云うなり。「平等」と書いては、「おしなべて」と読む。
この一心三観・一念三千の法門、諸経にたえてこれ無し。法華経に遇わざれば、いかでか成仏すべきや。余経には六界・八界より十界を明かせども、さらに具を明かさず。法華経は念々に一心三観・一念三千の謂れを観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出だされ、無明の雲晴れて法性の月明らかに、妄想の夢醒めて本覚の月輪いさぎよく、父母の生むところの肉身、煩悩具縛の身、即ち本有常住の如来となるべし。これを即身成仏とも、煩悩即菩提とも、生死即涅槃とも申す。この時、法界を照らし見れば、ことごとく中道の一理にて、仏も衆生も一なり。されば、天台の所釈に「一色一香も中道にあらざることなし」と釈し給えり。この時は、十方世界皆寂光浄土にて、いずれの処をか弥陀・薬師等の浄土とは云わん。ここをもって法華経に「この法は法位に住して、世間の相は常住なり」と説き給う。
さては経をよまずとも心地の観念ばかりにて成仏すべきかと思いたれば、一念三千の観念も一心三観の観法も、妙法蓮華経の五字に納まれり。妙法蓮華経の五字は、また我らが一心に納まって候いけ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(020)一念三千法門 | 正嘉2年(’58) | 37歳 |