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せる所従の、しかもその位につけるがごとし。
真言宗と申すは、一向に大妄語にて候が、深くその根源をかくして候えば、浅機の人あらわしがたし。一向に誑惑せられて数年を経て候。まず天竺に真言宗と申す宗なし。しかるに「有り」と云々。その証拠を尋ぬべきなり。詮ずるところ、大日経ここにわたれり。法華経に引き向かえてその勝劣これを見るところに、大日経は法華経より七重下劣の経なり。証拠は、彼の経、この経に分明なり〈ここにこれを引かず〉。しかるを、あるいは云わく「法華経に三重の主君」、あるいは「二重の主君なり」と云々。もっての外の大僻見なり。譬えば、劉聡が下劣の身として愍帝に馬の口をとらせ、趙高が民の身として横しまに帝位につきしがごとし。また彼の天竺の大慢婆羅門が釈尊を床として坐せしがごとし。漢土にも知る人なく、日本にも、あやしめずして、すでに四百余年をおくれり。
かくのごとく仏法の邪正乱れしかば、王法も漸く尽きぬ。結句は、この国、他国にやぶられて亡国となるべきなり。このこと日蓮独り勘え知れる故に、仏法のため、王法のため、諸経の要文を集めて一巻の書を造る。よって故最明寺入道殿に奉る。立正安国論と名づけき。その書にくわしく申したれども、愚人は知り難し。詮ずるところ、現証を引いて申すべし。
そもそも人王八十二代隠岐法皇と申す王有しき。去ぬる承久三年太歳辛巳五月十五日、伊賀太郎判官光季を打ち捕りまします。鎌倉の義時をうち給わんとての門出なり。やがて五畿七道の兵を召して、相州鎌倉の権大夫義時を打ち給わんとし給うところに、還って義時にまけ給いぬ。結句、我が身は隠岐国にながされ、太子二人は佐渡国・阿波国にながされ給う。公卿七人はたちまちに頸をはねら
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(014)本尊問答抄 | 弘安元年(’78)9月 | 57歳 | 浄顕房 |