むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ」。また云わく「また問訊せざれ」等云々。たとい親父たれども、一向小乗の寺に住する比丘・比丘尼をば、一向大乗の寺の子息これを礼拝せず親近せず。いかにいわんや、その法を修行せんや。大小兼行の寺は、後心の菩薩なり。
今、日本国は、最初に仏法の渡って候いし比は大小雑行にて候いしが、人王四十五代聖武天皇の御宇に、唐の揚州竜興寺の鑑真和尚と申せし人、漢土より我が朝に法華経・天台宗を渡し給いてありしが、円機未熟とやおぼしけん、この法門をば己心に収めて口にも出だし給わず、大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり。これひとえに法華宗の流布すべき方便なり。大乗出現の後には肩を並べて行ぜよとにはあらず。例せば、儒家の本師たる孔子・老子等の三聖は、仏の御使いとして漢土に遣わされて、内典の初門に礼楽文を諸人に教えたりき。止観に経を引いて云わく「我、三聖を遣わして、彼の震旦を化す」等云々。妙楽大師云わく「礼楽前に馳せて、真道後に啓く」と云々。仏は大乗の初門にしばらく小乗戒を説き給いしかども、時すぎぬれば禁めて云わく、涅槃経に云わく「もし人有って如来は無常なりと言わん。いかんぞ、この人、舌堕落せざらん」等云々。
その後、人王第五十代桓武天皇の御宇に、伝教大師と申せし聖人出現せり。始めには華厳・三論・法相・俱舎・成実・律の六宗を習い極め給うのみならず、達磨宗の淵底を探り究め給い、あまつさえ、いまだ日本国に弘通せざる天台・真言の二宗をも尋ね顕して、浅深・勝劣を心中に究竟し給えり。去ぬる延暦二十一年正月十九日に、桓武皇帝、高雄寺に行幸なり給い、南都七大寺の長者の善議・勤操等の十四人を教大師に召し合わせて、六宗と法華宗との勝劣を糾明せられしに、六宗の碩学、宗々ご
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(013)下山御消息 | 建治3年(’77)6月 | 56歳 | 下山光基 |