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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

とに、「我が宗は一代超過」の由各々に立て申されしかども、教大師の一言に万事破れ畢わんぬ。その後、皇帝重ねて口宣す。和気広世を御使いとして諫責せられしかば、七大寺・六宗の碩学一同に謝表を奉り畢わんぬ。一十四人の表に云わく「この界の含霊、今より後、ことごとく妙円の船に載り、早く彼岸に済ることを得」云々。教大師云わく「二百五十戒たちまちに捨て畢わんぬ」云々。また云わく「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り」。また云わく「一乗の家にはすべて用いず」。また云わく「穢食をもって宝器に置くことなかれ」。また云わく「仏世の大羅漢すでにこの呵責を被れり。滅後の小蚊虻何ぞこれに随わざらん」云々。
 これまた私の責めにはあらず。法華経には「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」云々。涅槃経には「邪見の人」等云々。「邪見」「方便」と申すは、華厳・大日経・般若経・阿弥陀経等の四十余年の経々なり。「捨てて」とは、天台云わく「廃つるなり」。また云わく「謗とは背くなり」。「正直」の初心の行者の法華経を修行する法は、上に挙ぐるところの経々・宗々を抛って、一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候なり。しかるを、初心の行者、深位の菩薩のように彼々の経々と法華経とを並べて行ずれば、不正直の者となる。世間の法にも、賢人は二君に仕えず、貞女は両夫に嫁がずと申す、これなり。
 また私に異義を申すべきにあらず。如来は未来を鑑みさせ給いて、我が滅後正法一千年・像法一千年・末法一万年が間、我が法門を弘通すべき人々ならびに経々を、一々にきりあてられて候。しかるに、これを背く人世に出来せば、たとい智者・賢王なりとも用いるべからず。いわゆる「我が滅