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雨をみて竜の分斉をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。
阿含経の題目には大旨一切はあるようなれども、ただ小釈迦一仏のみありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等にはまた一切有るようなれども、二乗を仏になすようと久遠実成の釈迦仏なし。例せば、花さいて菓ならず、雷なって雨ふらず、鼓あって音なし、眼あって物をみず、女人あって子をうまず、人あって命なし、また神なし。大日の真言、薬師の真言、阿弥陀の真言、観音の真言等、またかくのごとし。彼の経々にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のようなれども、法華経の題目に対すれば、雲泥の勝劣なるのみならず、皆各々当体の自用を失う。例せば、衆星の光の一つの日輪にうばわれ、諸の鉄の一つの磁石に値って利性のつき、大剣の小火に値って用を失い、牛乳・驢乳等の師子王の乳に値って水となり、衆狐が術一犬に値って失い、狗犬が小虎に値って色を変ずるがごとし。
南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も、南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も、一切の諸仏・諸経・諸菩薩の用、皆ことごとく妙法蓮華経の用に失わる。彼の経々は妙法蓮華経の用を借らずば、皆いたずらのものなるべし。当時眼前のことわりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば、南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひるがごとく、秋冬の草のかるるがごとく、氷の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。
問うて云わく、この法実にいみじくば、など、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、善導が南無阿弥陀仏とすすめて漢土に弘通せしがごとく、恵心・永観・法然が日本国
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(010)報恩抄 | 建治2年(’76)7月21日 | 55歳 | 浄顕房・義浄房 |