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いかにいおうや、上にあげられて候徳どもは不審あることなり。
「弘仁九年の春、天下大疫す」等云々。春は九十日、いずれの月、いずれの日ぞ〈これ一〉。また弘仁九年には大疫ありけるか〈これ二〉。また「夜変じて日光赫々たり」と云々。このこと第一の大事なり。弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり。左史・右史の記に載せたりや〈これ三〉。たとい載せたりとも、信じがたきことなり。成劫二十劫・住劫九劫、已上二十九劫が間に、いまだ無き天変なり。夜中に日輪の出現せることいかん。また如来一代の聖教にもみえず。未来に夜中に日輪出ずべしとは、三皇五帝、三墳五典にも載せず。仏経のごときんば、減劫にこそ二つの日、三つの日、乃至七つの日は出ずべしとは見ゆれども、かれは昼のことぞかし。夜、日出現せば、東西北の三方はいかん。たとい内外の典に記せずとも、現に弘仁九年の春、いずれの月、いずれの日、いずれの夜の、いずれの時に日出ずという公家・諸家・叡山等の日記あるならば、すこし信ずるへんもや。次下に「昔、予、鷲峰説法の筵に陪して、親りその深文を聞きたてまつる」等云々。この筆を人に信ぜさせしめんがためにかまえ出だす大妄語か。されば、霊山にして「法華経は戯論、大日経は真実」と仏の説き給いけるを、阿難・文殊が誤って妙法華経をば真実とかけるか、いかん。いうにかいなき婬女、破戒の法師等が歌をよみて雨らす雨を三七日まで下らさざりし人は、かかる徳あるべしや〈これ四〉。
孔雀経音義に云わく「大師、智拳印を結んで南方に向かうに、面門にわかに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云々。これまたいずれの王、いずれの年時ぞ。漢土には建元を初めとし、日本には大宝を初めとして、緇素の日記、大事には必ず年号のあるか。これほどの大事に、いかでか王も臣も年号も
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(010)報恩抄 | 建治2年(’76)7月21日 | 55歳 | 浄顕房・義浄房 |