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しかれども、我が心になお不審やのこりけん、また心にはとけてんげれども人の不審をはらさんとやおぼしけん、この十四巻の疏を御本尊の御前にさしおきて御祈請ありき。「かくは造って候えども、仏意計りがたし。大日の三部やすぐれたる、法華経の三部やまされる」と御祈念ありしかば、五日と申す五更にたちまちに夢想あり。青天に大日輪かかり給えり。矢をもってこれを射ければ、矢飛んで天にのぼり、日輪の中に立ちぬ。日輪動転してすでに地に落ちんとすとおもいてうちさめぬ。悦んで云わく「我吉夢あり。法華経に真言勝れたりと造りつるふみは、仏意に叶いけり」と悦ばせ給いて、宣旨を申し下し日本国に弘通あり。しかも宣旨の心に云わく「ついに知んぬ、天台の止観と真言の法とは、義理冥に符えり」等云々。祈請のごときんば、大日経に法華経は劣なるようなり。宣旨を申し下すには、法華経と大日経とは同じ等云々。
智証大師は本朝にしては義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は大体この国にして学し給いけり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審に漢土へは渡り給いけるか。去ぬる仁寿二年に御入唐。漢土にしては真言宗は法全・元政等にならわせ給い、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。天台宗は良諝和尚にならい給う。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には及ばず等云々。七年が間漢土に経て、去ぬる貞観元年五月十七日御帰朝。大日経の指帰に云わく「法華すらなお及ばず。いわんや自余の教えをや」等云々。この釈は、法華経は大日経には劣る等云々。また授決集に云わく「真言・禅門乃至もし華厳・法華・涅槃等の経に望めば、これ摂引門なり」等云々。普賢経の記、論の記に云わく「同じ」等云々。貞観八年丙戌四月二十九日壬申、勅宣を申し下して云
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(010)報恩抄 | 建治2年(’76)7月21日 | 55歳 | 浄顕房・義浄房 |