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わく「聞くならく、真言・止観両教の宗、同じく醍醐と号し、ともに深秘と称す」等云々。また六月三日の勅宣に云わく「先師既に両業を開いて、もって我が道となす。代々の座主相承して兼ね伝えざることなし。在後の輩あに旧迹に乖かんや。聞くならく、山上の僧等専ら先師の義に違いて偏執の心を成す。ほとんど余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みざるに似たり。およそ、その師資の道、一つを闕いても不可なり。伝弘の勤め、いずくんぞ兼備せざらんや。今より以後、よろしく両教に通達するの人を延暦寺の座主となすをもって、立てて恒例となすべし」云々。
されば、慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子。漢土にわたりてはまた天台・真言の明師に値ってありしかども、二宗の勝劣は思い定めざりけるか。あるいは真言はすぐれ、あるいは法華すぐれ、あるいは理同事勝等云々。宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり。これらは皆、自語相違といいぬべし。他宗の人はよも用いじとみえて候。
ただし、「二宗斉等とは、先師・伝教大師の御義」と宣旨に引き載せられたり。そもそも伝教大師いずれの書にかかれて候ぞや。このことよくよく尋ぬべし。
慈覚・智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは、親に値っての年あらそい、日天に値い奉っての目くらべにては候えども、慈覚・智証の御かとうどをせさせ給わん人々は、分明なる証文をかまえさせ給うべし。詮ずるところは信をとらんがためなり。玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし。天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき。法護三蔵は印度の法華経をば見たれども、嘱累の先後をば、漢土の人みねども誤りといいしぞかし。たとい、慈覚、伝教大師に値い奉って習い伝えた
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(010)報恩抄 | 建治2年(’76)7月21日 | 55歳 | 浄顕房・義浄房 |