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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

の邪師を捨てて、よろしく予が正義に随うべし。正義とは、本迹勝劣の深秘、具騰本種の実理なり。日蓮一期の大事なれば、弟子等にも朝な夕なに教え、また一期の所造等、ことごとくこの義なり。しかりといえども、迹執を出でず、あるいは軽〈見惑〉、あるいは蔑〈思惑〉、あるいは癡〈塵沙惑〉、あるいは迷〈無明惑〉、故に日蓮が立義を用いざるか。予が教相・観心は、理即・名字、愚悪・愚見のためなり。
    日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり。上行所伝の結要付嘱の行儀は、教観判乗、皆名字即にして五味の主の修行なり。故に、教相の次第は要用によるべし。ただ大綱を存する時は、余は網目を事とせず。彼は網目、これは大綱なり。彼は網目の教相の主、これは大綱・首題の主なり。恐らくは、日蓮の行儀には天台・伝教も及ばず。いかにいわんや他師の行儀においてをや。ただ在世八箇年の儀式を移して滅後末法の行儀となす。しかりといえども、仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり。彼の一品二半は、舎利弗等のためには観心たり、我ら凡夫のためには教相たり。理即・短妄の凡夫のための観心は、余行に渡らざる南無妙法蓮華経これなり。
    かくのごとき深義を知らざる僻人出来して、予が立義は教相辺外と思うべきものなり。これらは皆、宿業の拙き修因感果の至極せるなるべし。彼の天台大師には三千人の弟子有って、章安一人朗然たり。伝教大師は三千人の衆徒を置く。義真已後はそれ無きがごとし。今、もってかくのごとし。数輩の弟子有りといえども、疑心無く正義を伝うる者は希にして、一・二の小石のごとし。秘すべきの法門なり。
 第六に住教顕観。七に住教非観。八に覆教顕観。九に住教用観。十に住観用教。この五重は上の五重のごとし。思惟すべし。
    問うて云わく、「本迹殊なりといえども、不思議一なり」、本迹の教において別して不思議の観理を顕すが故に云々。機情に約すれば、本迹において久近の異なり有るべし。これ一往の浅義なり。内証に約してこれを論ずれば、勝劣有るべからず。再往の深義は不思議一なり云々。いかんが意得べけんや。
    答えて云わく、住教顕観は煩悩即菩提、住教非観は法性寂然、覆教顕観は名字判教、住教用観は不思議一、住観用教は以顕妙円と申す大事これなり。教観不思議・天然本性の処に独一法界の妙観を立つ。これを不思議の本迹