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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

舎利弗等の声聞のための観心なり、我らがためには教相なり。情は、迹は劣り本は勝るるなり。また滅後像法の相似・観行の解了の行益も、もってかくのごとし。南岳・天台・伝教の修行のごとく末法に入って修行せば、帯権隔歴の行と成って、我らがためには虚戯の行と成るべきなり。日蓮は一向に本、天台は一向に迹なり。能く能くこれを問うべし。
    疏の九に云わく「爾前は皆虚にして実ならず。迹門は一虚一実、本門は皆実にして虚ならず」云々。爾前二種の失のこと、「一には、『行布を存するが故に、なおいまだ権を開せず』とて、迹門の理の一念三千を隠せり。二には、『始成を言うが故に、なおいまだ迹を発かず』とて、本門の久遠を隠せり。迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前二種の失一つを脱れたり。本門に至って迹門の十界の因果を打ち破る。これ即ち本因本果の法門なり。実の一念三千も顕れず、二乗作仏も定まらず」云々。「世間の罪によって悪道に堕つる者は爪上の土、仏法によって悪道に堕つる者は十方の土のごとし」。故は、信心の根本は本勝迹劣なり。余の信心は枝葉なり。
余行に渡る法華経の本迹
   一代八万の諸法は、本因妙の下種を受けて説くところの教えなるが故に、一部八巻乃至一代五時の次第・梯隥は、名字の妙法を下種して熟脱せし本迹なり。
在世の観心の法華経の本迹
   一品二半は、在世一段の観心なり、天台の本門なり。日蓮がためには教相迹門なり云々。
脱益の妙法の教主の本迹
   所説の正法は本門なり、能説の教主釈尊は迹門なり。法自ずから弘まらず、人法を弘むるが故に、人法ともに尊し。
脱益の今此三界の教主の本迹