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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

爾前・迹門の尸羅を論ずれば、一向に制禁すべし。法華本門の大戒においては、何ぞまた依用せざらんや。ただし、本門の戒体、委細の経釈、面をもって決すべし云々。
 身延の群徒、みだりに疑難して云わく、富山の重科は専ら当所の離散に有り。たとい地頭非例を致すとも、先師の遺跡を偲ぶべし。既に御墓に参詣せず、いかでか向背の過罪を遁れんや云々。
 日興云わく、この段、顚倒の至極なり。言語に及ばずといえども、未聞の族に仰せて毒鼓の縁を結ばん。
 夫れ、身延興隆の元由は聖人御座の尊貴により、地頭発心の根源は日興教化の力用にあらずや。しかるを、今、下種結縁の最初を忘れて劣謂勝見の僻案を起こし、師弟有無の新義を構え、理非顕然の諍論を致す。誠にこれ、葉を取ってその根を乾かし、流れを酌んでいまだ源を知らざる故か。いかにいわんや、慈覚・智証は即ち伝教入室の付弟、叡山住持の祖匠なり。若宮八幡はまた百王鎮護の大神、日域の朝庭の本主なり。しかりといえども、明神は仏前において謗国捨離の願を立て、先聖は慈覚を指して本師違背の仁と称す。もし御廟を守るを正となさば、円仁所破の段頗る高祖の謬誤なり。非例を致して過無くんば、その国棄捨の誓いすべて垂迹の不覚か。料り知んぬ、悪鬼・外道の災いを作し、宗廟・社稷の処を辞す。善神・聖人の居は、即ち正直正法の頂なり。
 そもそも、身延一沢の余流、いまだ法水の清濁を分かたず。強いて御廟の参否を論ぜば、汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす。何ぞ法華の持者と号せんや。迷暗もっとも甚だし。これに準じて知るべし。
 伝え聞く、天台大師に三千余の弟子有り。章安、朗然として独りこれを達す。伝教大師は三千侶の