衆徒を安く。義真以後はそれ無きがごとし。今、日蓮聖人は万年救護のために六人の上首を定む。しかりといえども、法門既に二途に分かれ、門徒また一準ならず。宿習の至り、正師に遇うといえども、伝持の人、自他弁じ難し。「能くこの法を聴く者、この人もまた難し」。「この言もし堕ちなば、将来悲しむべし」。経文と解釈とあたかも符契のごとし。迹化の悲歎なおかくのごとし。本門の墜堕むしろ愁えざらんや。案立もし先師に違わば、一身の短慮もっとも恐れ有り。言うところまた仏意に叶わば、五人の謬義はなはだ憂うべし。取捨は、正見に任す。思惟してよろしく解すべし云々。
この外、支流異義を構え、諂曲やや数多なり。その中に天目云わく、已前の六人の談は皆もって嘲弄すべきの義なり。ただし、富山宜しといえども、また過失有り。迹門を破しながら方便品を読むこと既に自語相違せり。信受すべきに足らず。もし所破のためと云わば、弥陀経をも誦すべけんや云々。
日興云わく、聖人の炳誡のごとくんば、沙汰の限りにあらずといえども、慢幢を倒さんがために、ほぼ一端を示さん。まず本迹の相違は汝たしかに自発するや。去ぬる□□□□の比、天目当所に来って問答を遂ぐるの刻み、日興が立義、一々証伏し畢わんぬ。もし正見を存せば、もっとも帰敬を成すべきのところに、還って方便読誦の難を致す。誠にこれ無慙無愧の甚だしきなり。夫れ、狂言綺語の歌仙を取って自作に備うる卿相すら、なお短才の恥辱となす。いわんや、終窮究竟の本門を盗み己が徳と称する逆人、いかでか無間の大苦を免れんや。照覧、冥に在り、慎まずんばあるべからず。
次に、方便品の疑難に至っては、汝いまだ法門の立破を弁ぜず、ほしいままに祖師の添加を蔑如す。重科一にあらず。罪業上のごとし。もし知らんと欲せば、以前のごとく富山に詣で、もっとも習学の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(455)五人所破抄 |