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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

五人いかでか辺鄙と下さんや。
 次に、上行菩薩は本極法身微妙深遠にして寂光に居すといえども、未了の者のために、事をもって理を顕し、地より涌出したまいてより以来、付を本門に承け、時を末法に待ち、生を我が朝に降し、訓えを仮字に示す。祖師の鑑機、失無くんば、遺弟の改転定めて恐れ有らんか。これらの所勘によって、浅智の仰信を致すのみ。そもそも、梵・漢の両字と扶桑の一点とは、時に依り機に随って互いに優劣無しといえども、つらつら上聖被下の善巧を思うに、ほとんど天竺・震旦の方便に超えたり。何ぞ、倭国の風俗を蔑如して、必ずしも漢家の水露を崇重せん。ただし、西天の仏法東漸の時、既に梵音を翻じて倭・漢に伝うるがごとく、本朝の聖語も、広宣の日は、また仮字を訳して梵・震に通ずべし。遠沾の翻訳は諍論に及ばず。雅意の改変は独り悲哀を懐く者なり。
 また五人一同に云わく、先師所持の釈尊は、忝くも弘長配流の昔これを刻み、弘安帰寂の日も随身せり。何ぞ、たやすく言うに及ばんや云々。
 日興云わく、諸仏の荘厳同じといえども、印契によって異を弁ず。如来の本迹は測り難し。眷属をもってこれを知る。ゆえに、小乗三蔵の教主は迦葉・阿難を脇士となし、伽耶始成の迹仏は普賢・文殊左右に在り。この外の一体の形像、あに頭陀の応身にあらずや。およそ、円頓の学者は、広く大綱を存して網目を事とせず。つらつら聖人出世の本懐を尋ぬれば、源、権実已過の化導を改め、上行所伝の乗・戒を弘めんがためなり。図するところの本尊は、また正像二千の間、一閻浮提の内、未曽有の大漫荼羅なり。今に当たっては、迹化の教主既に益無し、いわんや哆々婆和の拙仏をや。