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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

かべ給うを、諸宗の智者・学匠等は、近くは自宗にまどい、遠くは法華経の寿量品を知らず、水中の月に実月のおもいをなして、あるいは入って取らんとおもい、あるいは縄をつけてつなぎとどめんとす。これを天台大師、釈して云わく「天月を識らず、ただ池月のみを観ず」と。心は、爾前・迹門に執著する者は、そらの月をしらずして、ただ池の月をのぞみ見るがごとくなりと釈せられたり。また僧祇律の文に「五百の猿、山より出でて、水にやどれる月をみて入ってとらんとしけるが、実には無き水月なれば、月とられずして水に落ち入って猿は死にけり。猿とは、今の提婆達多・六群比丘等なり」とあかし給えり。
 一切経の中にこの寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王なく、山海に玉なく、人にたましい無からんがごとし。されば、寿量品なくしては一切経いたずらごとなるべし。根無き草はひさしからず。みなもとなき河は遠からず。親無き子は人にいやしまる。詮ずるところ、寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ、十方三世の諸仏の母にて御坐しまし候え。恐々謹言。
  四月十七日    日蓮 花押