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爾前の経に二つの失あり。一には、「行布を存するが故に、なおいまだ権を開せず」と申して、迹門方便品の十如是の一念三千・開権顕実・二乗作仏の法門を説かざる過なり。二には、「始成を言うが故に、なおいまだ迹を発かず」と申して、久遠実成の寿量品を説かざる過なり。この二つの大法は、一代聖教の綱骨、一切経の心髄なり。
迹門には、二乗作仏を説いて、四十余年の二つの失一つを脱したり。しかりといえども、いまだ寿量品を説かざれば、実の一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水にやどる月のごとく、根無し草の浪の上に浮かべるに異ならず。また云わく「しかるに、善男子よ、我は実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云々。この文の心は、華厳経の「始めて正覚を成ず」と申して始めて仏になると説き給う、阿含経の「初めて成道す」、浄名経の「始め仏樹に坐す」、大集経の「始めて十六年」、大日経の「我は昔道場に坐す」、仁王経の「二十九年」、無量義経の「我は先に道場にして」、法華経方便品の「我は始め道場に坐す」等を、一言に大虚妄なりと打ち破る文なり。
本門寿量品に至って始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ、四教の果やぶれぬれば四教の因やぶれぬ。因とは修行、弟子の位なり。爾前・迹門の因果を打ち破って、本門の十界の因果をときあらわす。これ則ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界にそなえて、実の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
こうしてかえってみるときは、華厳経の台上盧舎那、阿含経の丈六の小釈迦、方等・般若・金光明経・阿弥陀経・大日経等の権仏等は、この寿量品の仏の天月のしばらくかげを大小のうつわものに浮
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(421)寿量品得意抄 |