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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

えに、慈覚・智証・安然の三師は伝教の山に栖むといえども、その義は弘法・東寺の心なり。したがって日本国、四百余年は異義なし。汝、不肖の身として、いかんがこの悪義を存するや」〈これ二〉。
 答えて云わく、悪口をはき悪心をおこさば、汝においてはこの義申すまじ、正義を聞かんと申さば申すべし。ただし、汝等がようなる者は、物をいわずばつまりぬとおもうべし。いうべし。悪心をおこさんよりも、悪口をなさんよりも、きらきらとして候経文を出だして、汝が信じまいらせたる弘法大師の義をたすけよ。悪口・悪心をもっておもうに、経文には即身成仏無きか。
 ただし、慈覚・智証・安然等のことは、これまた覚・証の両大師、日本にして教大師を信ずといえども、漢土にわたりて有りし時、元政・法全等の義を信じて、心には教大師の義をすて、身はその山に住すれどもいつわりてありしなり。
 問うて云わく、汝がこの義はいかにしておもいいだしけるぞや。
 答えて云わく、伝教大師の釈に云わく「当に知るべし、この文は、成仏するところの人を問うて、この経の威勢を顕すなり」とかかれて候は、上の提婆品の「我は海中において」の経文をかきのせてあそばして候。釈の心は、いかに人申すとも即身成仏の人なくば用いるべからずとかかせ給えり。いかにも、純円一実の経にあらずば即身成仏はあるまじき道理あり。大日経・金剛頂経等の真言経には、その人なし。また経文を見るに、兼・但・対・帯の旨分明なり。二乗成仏なし。久遠実成あとをけずる。
 慈覚・智証は、善無畏・金剛智・不空三蔵の釈にたぼらかされておわするか。この人々は、賢人・聖