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波木井河と名づく。大石を木の葉のごとく流す。東には富士河、北より南へ流れたり。せんのほこをつくがごとし。内に滝あり。身延の滝と申す。白布を天より引くがごとし。この内に狭小の地あり。日蓮が庵室なり。深山なれば昼も日を見奉らず、夜も月を詠むることなし。峰にははこうの猿かまびすしく、谷には波の下る音、鼓を打つがごとし。地にはしかざれども大石多く、山には瓦礫より外には物もなし。国主はにくみ給う。万民はとぶらわず。冬は雪道を塞ぎ、夏は草おいしげり、鹿の遠音うらめしく、蟬の鳴く声かまびすし。訪う人なければ命もつぎがたし。はだえをかくす衣も候わざりつるに、かかる衣をおくらせ給えるこそ、いかにとも申すばかりなく候え。
見し人、聞きし人だにもあわれとも申さず、年比なれし弟子、つかえし下人だにも、皆にげ失せとぶらわざるに、聞きもせず見もせぬ人の御志、哀れなり。ひとえにこれ、別れし我が父母の生まれかわらせ給いけるか。十羅刹の人の身に入りかわりて思いよらせ給うか。
唐の代宗皇帝の代に、蓬子将軍と申せし人の御子・李如暹将軍と申せし人、勅定を蒙って北の胡地を責めしほどに、我が勢数十万騎は打ち取られ、胡国に生け取られて、四十年漸くへしほどに、妻をかたらい、子をもうけたり。胡地の習い、生け取りをば皮の衣を服せ、毛帯をかけさせて候が、ただ正月一日ばかり唐の衣冠をゆるす。一年ごとに漢土を恋いて、肝をきり、涙をながす。しかるほどに唐の軍おこりて、唐の兵、胡地をせめし時、ひまをえて胡地の妻子をふりすててにげしかば、唐の兵は胡地のえびすとて捕らえて、頸をきらんとせしほどに、とこうして徳宗皇帝にまいらせてありしかば、いかに申せども聞きもほどかせ給わずして、南の国、呉越と申す方へ流されぬ。李如暹歎い
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(409)妙法比丘尼御返事 | 弘安元年(’78)9月6日 | 57歳 | 妙法尼 |