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一切の念仏者にかたらわれて、度々の問註ありて、結句は合戦起こって候上、極楽寺殿の御方人、理をまげられしかば、東条の郡ふせがれて入ることなし。父母の墓を見ずして数年なり。また国主より御勘気二度なり。第二度は、外には遠流と聞こえしかども、内には頸を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に、九月十二日の丑時に頸の座に引きすえられて候いき。いかがして候いけん、月のごとくにおわせし物、江の島より飛び出でて使いの頭へかかり候いしかば、使いおそれてきらず。とこうせしほどに子細どもあまたありて、その夜の頸はのがれぬ。また佐渡国にてきらんとせしほどに、日蓮が申せしがごとく鎌倉にどしうち始まりぬ。使いはしり下って頸をきらず、結句はゆるされぬ。今はこの山に独りすみ候。
佐渡国にありし時は、里より遥かにへだたれる野と山との中間に、つかはらと申す御三昧所あり。かしこに一間四面の堂あり。そらはいたまあわず、四壁はやぶれたり。雨はそとのごとし、雪は内に積もる。仏はおわせず。筵・畳は一枚もなし。しかれども、我が根本より持ちまいらせて候教主釈尊を立てまいらせ、法華経を手ににぎり、蓑をき、笠をさして居たりしかども、人もみえず、食もあたえずして四箇年なり。彼の蘇武が胡国にとめられて、十九年が間、蓑をき、雪を食としてありしがごとし。
今またこの山に五箇年あり。北は身延山と申して天にはしだて、南はたかとりと申して鶏足山のごとし。西はなないたがれと申して鉄門に似たり。東は天子がたけと申して富士の御山にたいしたり。四つの山は屛風のごとし。北に大河あり。早河と名づく。早きこと箭をいるがごとし。南に河あり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(409)妙法比丘尼御返事 | 弘安元年(’78)9月6日 | 57歳 | 妙法尼 |