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また、法華経をば経のごとく持つ人々も、法華経の行者を、あるいは貪・瞋・癡により、あるいは世間のことにより、あるいはしなじなのふるまいによって憎む人あり。これは法華経を信ずれども信ずる功徳なし。かえりて罰をかぼるなり。
例せば、父母なんどには謀反等より外は子息等の身としてこれに背けば不孝なり。父が我がいとおしきめをとり、母が我がいとおしきおとこを奪うとも、子の身として一分も違わば、現世には天に捨てられ、後生には必ず阿鼻地獄に堕つる業なり。いかにいわんや、父母にまされる賢王に背かんをや。いかにいわんや、父母・国王に百千万億倍まされる世間の師をや。いかにいわんや出世間の師をや。いかにいわんや法華経の御師をや。
黄河は千年に一度すむといえり。聖人は千年に一度出ずるなり。仏は無量劫に一度出世し給う。彼には値うといえども、法華経には値いがたし。たとい法華経に値い奉るとも、末代の凡夫、法華経の行者には値いがたし。
いかんぞなれば、末代の法華経の行者は、法華経を説かざる華厳・阿含・方等・般若・大日経等の千二百余尊よりも、末代に法華経を説く行者は勝れて候なるを、妙楽大師釈して云わく「供養することあらん者は福十号に過ぎ、もし悩乱する者は頭七分に破る」云々。
今、日本国の者、去年・今年の疫病と去ぬる正嘉の疫病とは、人王始まって九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆえと見えたり。師子を吼うる犬は腸切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるは、これなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(406)日女御前御返事(嘱累品等大意の事) | 弘安元年(’78)6月25日 | 57歳 | 日女 |