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来のごとくにみえたる極楽寺の良観房よりも、この経を信じたる男女は座席を高く居えよとこそ候え。彼の二百五十戒の良観房も、日蓮に会いぬれば、腹をたて、眼をいからす。これただごとにはあらず。智者の身に魔の入りかわればなり。譬えば、本性よき人なれども、酒に酔いぬればあしき心出来し、人のためにあしきがごとし。
仏は、法華以前の迦葉・舎利弗・目連等をば、「これを供養せん者は三悪道に堕つべし。彼らが心は犬・野干の心には劣れり」と説き給いて候なり。彼の四大声聞等は、二百五十戒を持つことは金剛のごとし、三千の威儀具足することは十五夜の月のごとくなりしかども、法華経を持たざる時は、かくのごとく仰せられたり。いかにいわんや、それに劣れる今時の者どもをや。建長寺・円覚寺の僧どもの作法、戒文を破ることは大山の頽れたるがごとく、威儀の放埒なることは猿に似たり。これを供養して後世を助からんと思うは、はかなし、はかなし。
守護の善神、この国を捨つること疑いあることなし。昔釈尊の御前にして、諸天善神・菩薩・声聞、異口同音に誓いをたてさせ給いて、「もし法華経の御敵の国あらば、あるいは六月に霜・霰と成って国を飢饉せさせん」と申し、あるいは「小虫と成って五穀をはみ失わん」と申し、あるいは「旱魃をなさん」、あるいは「大水と成って田園をながさん」と申し、あるいは「大風と成って人民を吹き殺さん」と申し、あるいは「悪鬼と成ってなやまさん」と面々に申させ給いき。今の八幡大菩薩もその座におわせしなり。いかでか霊山の起請の破るるをおそれ給わざらん。起請を破らせ給わば、無間地獄は疑いなきものなり。恐れ給うべし、恐れ給うべし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(400)新池御書 | 弘安3年(’80)2月 | 59歳 | 新池殿 |