2065ページ
経文にこれあり、習うべし。
諸仏も諸神も、謗法の供養をば全く請け取り給わず。いわんや、人間としてこれをうくべきや。春日大明神の御託宣に云わく「飯に銅の炎をば食すとも、心穢れたる人の物をうけじ。座に銅の焰には坐すとも、心汚れたる人の家にはいたらじ。草の廊、萱の軒にはいたるべし」と云えり。「たとい、千日のしめを引くとも、不信の所には至らじ。重服深厚の家なりとも、有信の所には至るべし」云々。かくのごとく、善神はこの謗法の国をばなげきて天に上らせ給いて候。心けがれたると申すは、法華経を持たざる人のことなり。この経の五の巻に見えたり。謗法の供養をば銅の焰とこそおおせられたれ。神だにもかくのごとし。いわんや、我ら凡夫として、ほむらをば食すべしや。人の子として、我が親を殺したらんものの我に物をえさせんに、これを取るべきや。いかなる智者・聖人も無間地獄を遁るべからず。またそれにも近づくべからず。与同罪、恐るべし、恐るべし。
釈尊は、一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生の父なり主なり師なり。この釈尊を殺したらんに、いかでか諸天善神等、うれしく思しめすべき。今この国の一切の諸人は皆、釈尊の御敵なり。在家の俗男・俗女等よりも、邪智心の法師ばらは、殊の外の御敵なり。智慧においても、正智あり、邪智あり。智慧ありとも、その邪義には随うべからず。貴僧・高僧には依るべからず。賤しき者なりとも、この経の謂れを知りたらんものをば、生身の如来のごとくに礼拝・供養すべし。これ経文なり。
されば、伝教大師は「無智・破戒の男女等も、この経を信ぜん者は、小乗二百五十戒の僧の上の座席に居えよ、末坐にすべからず。いわんや、大乗この経の僧をや」とあそばされたり。今、生身の如
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(400)新池御書 | 弘安3年(’80)2月 | 59歳 | 新池殿 |