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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

説に難信難解なり」「ただ我一人のみ、能く救護をなす」と説かれて候文は如来の金言なり。あえて私の言にはあらず。
 当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思い、あるいは法華経に肩を並べて斉しと思い、あるいは勝れたり、あるいは劣るなれども機にかなえりと思えり。
 しかるに、如来の聖教に随他意・随自意と申すことあり。譬えば、子の心に親の随うをば随他意と申す、親の心に子の随うをば随自意と申す。諸経は随他意なり。仏、一切衆生の心に随い給う故に。法華経は随自意なり。一切衆生を仏の心に随えたり。諸経は仏説なれども、これを信ずれば、衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説なり、仏智なり。一字一点もこれを深く信ずれば、我が身即ち仏となる。
 譬えば、白紙を墨に染むれば黒くなり、黒漆に白物を入るれば白くなるがごとし。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる。故に妙法と申す。
 しかるに、今の人々は、高きも賤しきも、現在の父たる釈迦仏をばかろしめて、他人の縁なき阿弥陀・大日等を重んじ奉るは、これ不孝の失にあらずや、これ謗法の人にあらずやと申せば、日本国の人一同に怨ませ給うなり。それもことわりなり。まがれる木はすなおなる縄をにくみ、いつわれる者はただしき政をば心にあわず思うなり。
 我が朝、人王九十一代の間に、謀叛の人々は二十六人なり。いわゆる、大山王子・大石小丸、乃至将門・すみとも・悪左府等なり。これらの人々は、吉野・とつ河の山林にこもり、筑紫・鎮西の海中に