SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

隠るれば、島々のえびす、浦々のもののふどもうたんとす。しかれども、それは貴き聖人、山々・寺々・社々の法師・尼、女人はいとう敵と思うことなし。
 日蓮をば、上下の男女、尼・法師、貴き聖人なんど云わるる人々は、殊に敵となり候。その故は、いずれも後世をば願えども、男女よりは僧尼こそ願う由はみえ候え。彼らは往生はさておきぬ、今生の世をわたるなかだちとなる故なり。
 智者・聖人、また「我好し」「我勝れたり」と申し、本師の跡と申し、所領と申し、名聞利養を重くしてまめやかに、道心は軽し。「仏法はひがさまに心得て、愚癡の人なり、謗法の人なり」と言をも惜しまず、人をも憚らず、「当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり」の金言を恐れて、「我はこれ、世尊の使いなり。衆に処するに畏るるところなし」という文に任せていたくせむるあいだ、「いまだ得ざるを謂って得たりとなし、我慢の心は充満せん」の人々、いかでかにくみ、嫉まざらんや。
 されば、日蓮程、天神七代・地神五代・人王九十余代に、いまだこれ程法華経の故に三類の敵人にあだまれたる者なきなり。
 かかる上下万人一同のにくまれ者にて候に、これまで御渡り候いしこと、おぼろけの縁にはあらず。宿世の父母か昔の兄弟にておわしける故に思い付かせ給うか。また、過去に法華経の縁深くして、今度仏にならせ給うべきたねの熟せるかの故に、在俗の身として世間ひまなき人の、公事のひまに思い出ださせ給いけるやらん。