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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

著・天親等なり。
 像法に入って一千年、漢土に仏法わたりしかば、始めは儒家と相論せしゆえにいとまなきかのゆえに、仏教の内の大小・権実の沙汰なし。ようやく仏法流布せし上、月支よりかさねがさね仏法わたり来るほどに、前の人々はかしこきようなれども、後にわたる経論をもってみれば、はかなきことも出来す。また、はかなくおもいし人々もかしこくみゆることもありき。結句は十流になりて千万の義ありしかば、愚者はいずれにつくべしともみえず。智者とおぼしき人は辺執かぎりなし。しかれども、最極は一同の義あり。いわゆる、一代第一は華厳経、第二は涅槃経、第三は法華経。この義は、上一人より下万民にいたるまで異義なし。大聖とあおぎし法雲法師・智蔵法師等の十師の義一同なりしゆえなり。
 しかるを、像法の中の陳・隋の代に、智顗と申す小僧あり。後には智者大師とごうす。法門多しといえども、詮ずるところ、法華・涅槃・華厳経の勝劣の一つばかりなり。智顗法師云わく「仏法さかさまなり」云々。陳主このことをたださんがために、南北十師の最頂たる慧暅僧正・慧曠僧都・慧栄・法歳法師等の百有余人を召し合わせられし時、「法華経の中には、『諸経の中において最もその上に在り』等云々。また云わく『已今当の説に最もこれ難信難解なり』等云々。已とは無量義経に云わく『摩訶般若・華厳海空』等云々。当とは涅槃経に云わく『般若はら蜜より大涅槃を出だす』等云々。この経文は、華厳経・涅槃経には法華経勝ると見ゆること、赫々たり、明々たり。御会通あるべし」とせめしかば、あるいは口をとじ、あるいは悪口をはき、あるいは色をへんじなんどせしかども、陳主