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よき人にむつぶもの、なにとなけれども心もふるまいも言もなおしくなるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれどもこの経を信じぬる人をば、仏のよきものとおぼすなり。
この法華経において、また機により時により国によりひろむる人により、ようようにかわりて候をば、等覚の菩薩までもこのあわいをばしらせ給わずとみえて候。まして末代の凡夫は、いかでかはからいおおせ候べき。
しかれども、人のつかいに三人あり。一人はきわめてこざかしき。一人ははかなくもなし、またこざかしからず。一人はきわめてはかなく、たしかなる。この三人に、第一はあやまちなし。第二は、第一ほどこそなけれども、すこしこざかしきゆえに主の御ことばに私の言をそうるゆえに、第一のわるきつかいとなる。第三は、きわめてはかなくあるゆえに私の言をまじえず、きわめて正直なるゆえに主の言をたがえず。第二よりもよきことにて候。あやまって第一にもすぐれて候なり。第一をば月支の四依にたとう。第二をば漢土の人師にたとう。第三をば末代の凡夫の中に愚癡にして正直なるものにたとう。
仏在世はしばらくこれをおく。仏の御入滅の次の日より一千年をば正法と申す。この正法一千年を二つにわかつ。前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給う。ひろめし人々は迦葉・阿難等なり。後の五百年は、馬鳴・竜樹・無著・天親等、権大乗経を弘通せさせ給う。法華経をばかたはしばかりかける論師もあり、またつやつや申しいださぬ人もあり。正法一千年より後の論師の中には、少分は仏説ににたれども、多分をあやまりあり。あやまりなくしてしかもたらざるは、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(393)衆生身心御書 | 建治期 |