2033ページ
を動かさんに、枝葉静かなるべからず。大海の波あらからんに、船おだやかなるべきや。華厳宗・真言宗・念仏宗、律僧・禅僧等は、我が身持戒・正直に智慧いみじく尊しといえども、その身既に下剋上の家に生まれて、法華経の大怨敵となりぬ。阿鼻大城を脱るべきや。例せば、九十五種の外道の内には正直・有智の人多しといえども、二天三仙の邪法を承けしかば、終には悪道を脱るることなし。
しかるに、今の世の南無阿弥陀仏と申す人々、南無妙法蓮華経と申す人を、あるいは笑い、あるいはあざむく。これは、世間の譬えに稗の稲をいとい家主の田苗を憎む、これなり。これ国将なき時の盗人なり、日の出でざる時の鼹なり。夜打ち・強盗の科めなきがごとく、地中の自在なるがごとし。南無妙法蓮華経と申す国将と日輪とにあわば、大火の水に消え、猿猴が犬に値うなるべし。当時、南無阿弥陀仏の人々、南無妙法蓮華経の御声の聞こえぬれば、あるいは色を失い、あるいは眼を瞋らし、あるいは魂を滅し、あるいは五体をふるう。伝教大師云わく「日出でぬれば星隠れ、巧みを見て拙きを知る」。竜樹菩薩云わく「謬辞失い易く、邪義扶け難し」。徳慧菩薩云わく「面に死喪の色有り、言に哀怨の声を含む」。法歳云わく「昔は義虎、今は伏鹿」等云々。これらの意をもって知んぬべし。
妙法蓮華経の徳、あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は、悪変じて善となる。玉泉と申す泉は石を玉となす。この五字は凡夫を仏となす。されば、過去の慈父尊霊は、存生に南無妙法蓮華経と唱えしかば、即身成仏の人なり。石変じて玉と成るがごとし。孝養の至極と申し候なり。故に、法華経に云わく「この我が二子は、すでに仏事を作しつ」。また云わく「この二子とは、これ我が善知識なり」等云々。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(389)内房女房御返事 | 弘安3年(’80)8月14日 | 59歳 | 内房女房 |