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捨てて浄土の念仏に遷りしことこれなり。日本国のいろはは、天台山の恵心の往生要集これなり。三論の永観が十因・往生講式、これらは皆この法門をうかがい得たる人々なり。法然上人もまたしかなり云々。
日蓮云わく、この義を存する人々等も、ただ「恒河の第一・第二は一向浄土の機」と云々。これ、この法門の肝要か。日蓮、涅槃経の三十二と三十六を開き見るに、第一は誹謗正法の一闡提、常没の大魚と名づけたり。第二はまた常没。その第二の人を出ださば、提婆達多・瞿伽梨・善星等なり。これは誹謗・五逆の人々なり。詮ずるところ、第一・第二は謗法と五逆なり。法蔵比丘の「たとい我仏を得んに、十方の衆生至心に信楽して我が国に生まれんと欲し、乃至十念して、もし生まれずんば、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とのみを除く」云々。この願のごときんば、法蔵比丘は恒河の第一・第二を捨てはててこそ候いぬれ。導和尚のごとくならば、末代の凡夫、阿弥陀仏の本願には「千の中に一りも無し」なり。法華経の結経たる普賢経には五逆と誹謗正法は一乗の機と定め給いたり。されば、末代の凡夫のためには、法華経は「十は即ち十生じ、百は即ち百生ず」なり。
善導和尚が義について申す詮は私案にはあらず。阿弥陀仏は無諍念王たりし時、娑婆世界はすでにすて給いぬ。釈迦如来は宝海梵志としてこの忍土を取り給い畢わんぬ。「十方の浄土には正法を誹謗するものと五逆と一闡提とをば迎うべからず」と、阿弥陀仏・十方の仏、誓い給いき。宝海梵志の願に云わく「即ち十方の浄土より擯出せらるる衆生を集めて、我当にこれを度すべし」云々。法華経に云わく「ただ我一人のみ、能く救護をなす」等云々。「ただ我一人のみ」の経文は堅きように候えど
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(386)浄蓮房御書 | 建治元年(’75)6月27日 | 54歳 | 浄蓮房 |