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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

も、釈迦如来の自義にはあらず。阿弥陀仏等の諸仏、我と娑婆世界を捨てしかば、教主釈尊、「ただ我一人のみ」と誓ってすでに娑婆世界に出で給いぬる上は、なにをか疑い候べき。
 鸞・綽・導・心・観・然等の六人の人々は智者なり。日蓮は愚者なり、学生にあらざるなり。ただし、上の六人はいずれの国の人ぞ。三界の外の人か、六道の外の衆生か。阿弥陀仏に値い奉って、出家・受戒して沙門となりたる僧か。今の人々は、将門・純友・清盛・義朝等には種姓も及ばず威徳も足らず、心のごうさは申すばかりなけれども、朝敵となりぬれば、その人ならざる人々も将門か純友かと舌にうちからみて申せども、彼の子孫等もとがめず。義朝なんど申すは、故右大将家の慈父なり。子を敬いまいらせば、父をこそ敬いまいらせ候べきに、いかなる人々も義朝・為朝なんど申すぞ。これ則ち王法の重く、逆臣の罪のむくいなり。上の六人もまたかくのごとし。
 釈迦如来、世に出でさせ給いて一代の聖教を説きおかせ給う。五十年の説法を我と集めて、浅深・勝劣・虚妄・真実を定めて、「四十余年はいまだ真実を顕さず」「已今当第一」等と説かせ給いしかば、多宝・十方の仏、真実なりと加判せさせ給いて定めおかれて候を、彼の六人は「いまだ真実を顕さず」の観経に依って、「皆これ真実なり」の法華経を、第一・第二の悪人のためにはあらずと申さば、今の人々は彼にすかされて数年を経たるゆえに、将門・純友等が所従等、彼を用いざりし百姓等を、あるいは切り、あるいは打ちなんどせしがごとし。彼をおそれて従いし男女は、官軍にせめられて、彼の人々と一時に水火のせめに値いしなり。
 今、日本国の、一切の諸の仏菩薩、一切の経を信ずるようなれども、心は彼の六人の心なり。身