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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

(386)

浄蓮房御書

 建治元年(ʼ75)6月27日 54歳 浄蓮房

 細美帷一つ、送り給び候い畢わんぬ。
 善導和尚と申す人は、漢土に臨淄と申す国の人なり。幼少の時、密州と申す国の明勝と申す人を師とせしが、彼の僧は法華経と浄名経を尊重して、我も読誦し人をもすすめしかば、善導にこれを教ゆ。善導これを習って師のごとく行ぜしほどに、過去の宿習にやありけん、案じて云わく「仏法には無量の行あり。機に随って皆利益あり。教いみじといえども、機にあたらざれば、虚しきがごとし。されば、我法華経を行ずるは、我が機に叶わずば、いかんがあるべかるらん。教には依るべからず」と思って一切経蔵に入り、両眼を閉じて経をとる。観無量寿経を得たり。披見すれば、この経に云わく「未来世の煩悩の賊の害するところとなる者のため、清浄の業を説く」等云々。
 「華厳経は二乗のため、法華経・涅槃経等は五乗にわたれども、たいしは聖人のためなり。末法の我らがためなる経はただ観経にかぎれり。
 釈尊最後の遺言には涅槃経にはすぐべからず。彼の経には七種の衆生を列ねたり。第一は『水に入れば則ち没す』の一闡提人なり。生死の水に入りしより已来いまに出でず。譬えば、大石を大海に投