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げ入れたるがごとし。身重くして浮かぶことを習わず、常に海底に有り。これを常没と名づく。第二をば『出で已わってまた没す』と申す。譬えば、身に力有りとも、浮かぶことをならわざれば、出で已わってまた入りぬ。これは、第一の一闡提の人にはあらねども、一闡提のごとし。また常没と名づく。第三は『出で已わって没せず』と申す。生死の河を出でてよりこのかた、没することなし。これは舎利弗等の声聞なり。第四は『出で已わって即ち住す』、第五は『方を観ず』、第六は『浅き処』、第七は『彼岸に到る』等なり。第四・第五・第六・第七は縁覚・菩薩なり。
釈迦如来、世に出でさせ給いて、一代五時の経々を説かせ給いて、第三已上の人々を救い給い畢わんぬ。第一は捨てさせ給いぬ。法蔵比丘・阿弥陀仏これをうけとって、四十八願を発して迎えとらせ給う。十方三世の仏と釈迦仏とは第三已上の一切衆生を救い給う。あみだ仏は第一・第二を迎えとらせ給う。しかるに、今末代の凡夫は、第一・第二に相当たれり。しかるを、浄影大師・天台大師等の他宗の人師は、このことを弁えずして九品の浄土に聖人も生まると思えり。誤りが中の誤りなり。
一向末代の凡夫の中に上の三品は遇大、始めて大乗に値える凡夫。中の三品は遇小、始めて小乗に値える凡夫。下の三品は遇悪、一生悪を造り、無間・非法の荒凡夫。臨終の時、始めて上の七種の衆生を弁えたる智人に行きあいて、岸の上の経々をうちすてて水に溺るるの機を救わせ給う。観経の下品下生の大悪業に南無阿弥陀仏を授けたり。
されば、我一切経を見るに、法華経等は末代の機には千中無一なり。第一・第二の我ら衆生は、第三已上の機のために説かれて候法華経等を末代に修行すれば、身は苦しんで益なし」と申して、善
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(386)浄蓮房御書 | 建治元年(’75)6月27日 | 54歳 | 浄蓮房 |